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文久3年8月30日(1863年10月12日)
【京】会津藩の要請により、諸藩士・浪人取締の朝命
【京】前尾張藩主徳川慶勝、勅召により入京
【京】大原重徳、蟄居を許される/
【京】朝廷、守護職に天誅組追討を怠らぬようにとの達し
【江】老中首座酒井忠績(雅楽守)上京の途へ
【長】穏健派、毛利登人・前田孫右衛門・周布政之助罷免を要求

■浪士取締り
【京】 文久3年8月30日、朝廷は、会津・因幡藩等に、(1)諸家に出入りしていた諸藩士・浪人の暴論家の取締り、及び(2)各藩で予め伝奏に名簿を提出した人員以外の諸家への立ち入り禁止を命じました。

実は、これらは守護職会津藩の要望によるものでした。会津藩は、この他、諸大名への沙汰は守護職・所司代に委任することも希望しましたが、これについては回答がなかったようです。

参考:「久邇宮国事文書写」「定功卿手録」(綱要DB 8月30日条 No93,96)、

同日、前尾張藩主徳川慶勝(容保の異母兄)が、勅召により、入京しました。容保にとっては、待望の実兄かつ親藩の有力大名である慶勝の再上京でした。 (参照:文久3年6月21日)-尾張・徳川慶勝帰国と京都における守護職の孤立。

参考:『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2001.10.12)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変

■攘夷別勅使
【京】文久3年8月30日、公卿大原重徳の蟄居が許されました。

大原は、文久2年、勅使として薩摩藩国父島津久光を従えて江戸に滞在中、長州藩世子毛利定広が携えてくる大赦の勅諚の文中に薩摩藩を刺激する文面があったため、両者融和のために、独断で勅諚を改ざんしました。事後報告はしたのですが、この罪を文久3年2月27日になって問われ、辞官・落飾・蟄居を命じられていました大原にとって、約半年振りの政界復帰となります。

関連■テーマ別文久2「薩長融和の勅諚改ざん」(2004.11.8)

■横浜鎖港問題
【江】文久3年8月30日、老中首座酒井忠績(雅楽守)が江戸を出立し、上京の途につきました。

その使命は、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺うこと、及び攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するためでした。

<ヒロ>
幕府は本音は破約攘夷などしたくないのだから、ここで、攘夷遅延の事情説明ではなく、攘夷不可能を説得するというオプションもあったと思うのですが・・・・・。

関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『七年史』一、『昔夢会筆記』、『徳川慶喜公伝』2(2004.11.8)

■天誅組
【京】文久3年8月30日、朝廷は、京都守護職松平容保に対し、天誅組の討手が討伐を怠らぬよう伝達するよう達しました。容保は命を奉じ、町奉行を通じて朝命を布達させました。(9月1日説−『維新史』−あり)

参考:『京都守護職始末』・『七年史』一・『維新史』三(2001.10.12)
関連:■「開国開城」「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年:「天誅組

■長州藩内訌
【長】文久3年8月30日、長州藩の保守派集団が萩から山口に到着し、直目付毛利登人・前田孫右衛門・表番頭格周布政之助罷免を強訴しました。

前日、保守派の中心人物椋無藤太らが萩から山口に赴き、藩主に謁して藩の要路を弾劾していましたが(こちら)、この日の動きはそれに続くものでした。京都における政変は現在の藩の要路が政策を誤っているからであり、彼らの政策は無謀で藩を危なくするものだというのが彼らの言い分でした。

<ヒロ>
時間ぎれです・・・。いずれ・・・。悪役視されている椋梨藤太ら長州保守派のことは詳しく調べて余話にUPしたいのですが・・・・・・。

坪井派(椋無派)VS周布派(村田派)の政争については「長州藩かけあし事件簿」をどうぞ。

関連:■テーマ別文久3「長州内訌」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』p542(2004.10.11)

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